『ドイツ写真の現在― かわりゆく「現実」と向かいあうために』

 東京国立近代美術館にて開催中(2005年10月25日(火) −12月18日(日))の『ドイツ写真の現在― かわりゆく「現実」と向かいあうために』を観に行く。全体的な印象としては、各作家の展示作品数が少ないだけではなく(ベアテ・グーチョウは2作品のみの展示!)、全体の展示作品数も全体で54組と、若干物足りなくてなんとも歯痒い。こういう1つの国の作家紹介的な展示こそ森美術館のような展示スペースの大きい美術館で観てみたいと思う。ベッヒャー・シューレの紹介とあれば、ルフやシュトルート、カンディダ・ヘーファーの写真はぜひとも観たかった……(しかもシリーズで)。 
 今回の展示が、全て作家本人によってレイアウトされたものかは私は知らないけれど、少なくとも確実に本人がレイアウトしたティルマンス、ハイディ・シュペッカーの作品群を観ていると、ユーロ一の経済大国であり、写真が大きな市場として認識されているドイツで活動する写真家達は、日本の同時代の作家と比較してみても、割と写真の展示を絵画や彫刻の展示と同じ文脈で捉えているようで、展示された時の価値というものをしっかりと理解しているように感じた。美術手帖11月号に掲載されているハイディ・シュテッカーへのインタビュー(p35)冒頭で、

「感覚をあと5センチつめたら、全体がひとつのタブローになって、イメージの間にシステムが感じ取れるようになると思うわ。」

と展示形式のこだわりを見せたところも示唆的だと思うし、ベッヒャー・シューレの大きく引き伸ばされた写真にしても、美術館などでの展示は前提とされているはずだ。(そういえば2000年にグルスキーの写真1枚が$181,750で落札されているんですよね。)その一方で、例えば、今年の夏あたりに川崎市民ミュージアムでも木村伊兵衛賞受賞者のアーカイヴは、坦々と第一回の受賞者から並べてあり、どこか平坦な印象を受けた記憶がある。普通、36作家もの展示となれば、自然と観る側はある受賞者の作品と他の作家との差異を見出そうとしてしまうものだと思うが、この展示方法だと個々の作家性が見えずらいなあ、と。あくまで木村〜という1つの文脈に沿っての展示だから当然といえば当然なんだけど、書籍としてまとめたものをあくまでそのまま手を加えず展示として“再現”してみせたというような印象とでも言おうか。今回のドイツ展を通して、このあたりの差異が見えてきて興味深かった。

グレゴリー・クリュードソン

ginsberg2005-11-11

●Gregory Crewdson: 1985-2005 

ついにグレゴリー・クリュードソン(1962年、ニューヨークのブルックリン生)の写真集が発売されましたね。まだ拝見していないのですが、1985〜2005年の代表作品がまとめられているとのことです。私は以前海外のサイトで偶然見つけて知っただけなのですが、あまりにも緻密に作り込まれた、奇妙で不気味で、でも幻惑的でファンタジックなステージド・フォトに鳥肌がたちまくったものです。早く見たいな〜〜

http://www.hatjecantz.de/controller.php?cmd=detail&titzif=00001622

彼岸島〜作者の意のままに物語と空間が肥大化する恐怖

ヤングマガジンにて連載中の『彼岸島』(松本 光司/講談社)が秀逸!
下記のストーリー解説を読んだ限りでは吸血鬼ホラーものなんだけど、決してそんな小さな枠内に留まらない。ホラーでグロテスクで視線を逸らしたい衝動に駆られるのは必至なんだけど、静かに湧き上がる怖いものみたさの感情と、“笑えてしまう”要素がそれを阻止してしまうんです。”笑えてしまう”要素とは所謂B級ホラーの面白さとは関係皆無です。あしからず。
(まず取っ掛かりとしては装丁と作品の絵柄のミスマッチで楽しんでください。)

以下は公式HPより抜粋したもの。

いつ吸血鬼に襲われるか分からない張り詰めた緊張感。
吸血鬼と主人公達とのスリリングな戦闘シーン。
そして、先がまったく読めないストーリー展開。
これらの要素が多くの読者の支持を得ており、
彼岸島ファンはこの狂気に満ちた世界の虜になっています。<ストーリー>
明は行方不明の兄を探すため、
仲間達と兄が消息を絶ったという島に降り立つ。
一年中、彼岸花が咲き乱れることから「彼岸島」と呼ばれる島。
そこに待ち受けるのは人を襲い、生き血をすする吸血鬼。
そして------。
恐怖が徘徊し絶望が支配するこの狂気の島から
生きて帰るための明たちの戦いが今、始まる。


★何故、彼岸島が面白いのか①

 後に物語を構成していく重要な要素の1つと誰もが思ったはずの、第一巻の明の不思議な予知能力はストーリー展開に何ら影響も及ぼすことなく、彼はただめっちゃ強い凛々しい男子に成長していく。吸血鬼は巨大な邪鬼(オニ)となり、亡者(もうじゃ)となり、
(※詳細は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E5%B2%B8%E5%B3%B6
に載っていました。)
上にも記した公式HPの紹介通り、「先がまったく読めないストーリー展開」に。ただただ敵の巨大化に比例して肥大する物語の落とし前はどうつけるのか、と思ったら最新刊で遂に、あらかじめ周到に用意されていたであろう彼岸島の“真実”が明かされる。・・・・・・んだけど、もはや肥大化したストーリーが、“真実”を上回る強度をつけてきてしまったため、落とし前としての機能は無効化されている。当然その“真実”は一本筋は通っているし、単なるこじつけなどではないんだけど……それでも胡散臭さすら感じてしまうのです。

★何故、彼岸島が面白いのか②

 脱出不可能な隔離された1つの島であるのに、ストーリーが進むにつれ新たな事実が露呈されると、次々と島の中にこんな場所があったのかと舞台となる空間が拡大していく違和感がある。作者の開き直りなのか……。例えば映画でいうと『ソウ』や『CUBE』では、隔離された密室に閉じ込められる恐怖(2作品は何故そこにいるのかという原因すら知らされずストーリーが始まるが……)があるが、展開に応じて密室に新たな要素が与えられ、作者の意のままに密室が拡大される時、もはやそれは密室とは呼べなくなるわけで、彼岸島を恐怖一辺倒で語ることは不可能となるのです。

『火垂るの墓』と上流階級の没落

 これまでは単なる戦時中の過酷さや切迫感を提示した、また非常時に暴かれる人間のおぞましさを少年と幼女の純粋さと対比的に描き出した戦争映画位にしか思っていなかったのだけど、この作品にちらつかされている背景に今更ながら気が付いた。
 まず、母親が亡くなりおばの家に2人が住み始める際、清太が焼失した元の住居から掘り出し運んできた戦時中とは思えないほどの大量の食料(梅干し、にしんなど)を見たおばが「あるところにはあるんね」と皮肉っている。戦時中にもかかわらず、父親が連合艦隊の隊員というだけで、食料を手に出来るなんて・・・という皮肉である。
 2人の食事からの判断はこれだけでも十分だが、もう一つ。映画ラスト近くで、衰弱した節子が食べたいものを尋ねられた時、天ぷらや、お造り(+サクマドロップ)といった豪華な料理を列挙する件からも、2人の家庭が当時としてはかなりの上流階級に属しているということがわかる。
 そこで思うのが、『火垂るの墓』は戦争を「主題」とした映画であるのはもちろんなんだけど、太宰治の『斜陽』のような、没落貴族の物語という見方も出来るんじゃないか、ということである。両作品中には主題に関してもかなり一致する箇所が認められる。
 『斜陽』において、大戦後父親を失い、没落していく貴族家庭の娘カズ子は、
「貧乏になって、お金がなくなったら、私たちの着物を売ったらいいじゃないの。……」と、叔父に紹介された家庭教師兼ご奉公の職を拒否し、それに「最後の貴族」である母親も同意。結局、カズ子は母親の死までは生活苦を伴いながらも働くことなく生活する、いわば滅びへの道を選択している。
 これと、同様に『火垂るの墓』でも、おばに引き取られた清太と節子は、毎日働きもせずにただ遊び、食事の世話になりながら暮らしている。職に就くことを拒む清太はまるで、母親と家の消失により大義を失い、ただ彼が誇りに思う父親の帰りを支えとしながら、もう遊び暮らすことでしか、生を肯定できないかの様でもある。私が幼い頃観た時は、子供の2人に対し浴びせられるおばの嫌味な口調に嫌悪感を抱いたものだが、今では2人のこの戦時中という時勢にそぐわない生活ぶりからすれば、その憤りは当然のことだとすんなりと思えてしまう。
 この後、別の地での生活を模索し、防空壕での2人だけの「ユートピア」生活を選択し、そして最終的には父親の帰りを待たずして、貯金を全て下ろしてしまう清太の大胆な行動は、『斜陽』同様に、「滅びの美学」的なるものを感じさせる。ただ、それでも、清太の場合は扶養せねばならない幼き妹の存在ともその大胆な行動の大きな原因の1つであるわけで、節子のためになら犯罪まがいの行動も躊躇わず、貯金を全て下ろそうが何でもしてしまう清太は、節子への愛情と生活の不安、大義の消失によって滅茶苦茶に引き裂かれているようである。
 というわけで、この映画に漂う喪失感は、死そのものや、焼け野原という物質的な「無」だけではなく、この上流階級の没落という一つのテーマに起因するものでもあると思う。
ラスト近くに、上流階級の若い女性3人が疎開から久しぶりに我が家へと戻り、笑顔ではしゃいでいるシーンが描かれた後、そのまますぐに節子が防空壕で衰弱し横たわるシーンへと移行する。この2つのシーンの対比が示唆するものは、3人のみずみずしい健康的な姿というのは、良家に生まれた節子が迎えるべき未来の一つのあり方でもあった、ということなんだろう。
 来週の火曜日に、叔母役の松嶋奈々子主演で実写版ドラマをやるみたいだけど、この作品がどう描かれるのかは楽しみ・・・やっぱりそんなに楽しみではない、かな。

RAW LIFE

RAW LIFEの断片的写真群。

ECD、湯浅湾等、そして獰猛な(?)客の皆様が被写体。私は、残念ながら行けませんでしたが、RAW LIFE症候群を発症してしまった参加者は、ここで当時の記憶を取り戻し、完全に治癒不可能になるそうです。
現実と虚構の境界に戸惑うアニメファンの方・・・じゃなかった(笑)、現実とRAW LIFEの狭間で身動きがとれないままの人、是非下記のサイトへ、イッちゃってください。

http://d.hatena.ne.jp/rufuto/20051020